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2015年ニコニコ動画はどんなタグが人気だったか

2015年ニコニコ動画はどんなタグが人気だったか

ニコニコ動画人気タグランキングと言うサービスをやっている。週間、月間、半期、年間のそれぞれの期間のニコニコ動画における人気のあったタグを集計している。

年間の人気タグランキングが取れるので、今年の1月1日から12月31日までの動画のランキングから人気のあるタグを割り出した。元になっている動画は、すべての動画ではなく、カテゴリーランキングに入った動画を元にしているので、いわゆるロングテールではなく、人気のある動画のタグ情報であることに注意して欲しい。

2015年の人気タグランキングを計測したので、それを紹介する。

2014年のまとめは、こちら。 ちなみに、2013ねんのまとめはこちら

2015年人気タグランキング

詳しい結果は、こちらで見られる。

今年新たに追加されたタグは新規と10以上順位が変わったものは、上がったものが赤字、下がったものが青字で表現されている。

順位 前回順位 増減 タグ
1 1 変わらず 実況プレイ動画
2 なし 新規 おそ松さん
3 2 -1 MikuMikuDance
4 なし 新規 手描きおそ松さん
5 なし 新規 刀剣乱舞
6 4 -2 真夏の夜の淫夢
7 3 -4 ゆっくり実況プレイ
8 なし 新規 スーパーマリオメーカー
9 なし 新規 マリオメーカー
10 9 -1 Minecraft
11 なし 新規 スプラトゥーン
12 なし 新規 MMD刀剣乱舞
13 なし 新規 Splatoon
14 5 -9 艦隊これくしょん
15 なし 新規 MAD松さん
16 6 ↓-10 艦これ
17 22 5 実況プレイpart1リンク
18 なし 新規 はなまるぴっぴはよいこだけ
19 457 ↑438 マインクラフト
20 なし 新規 がっこうぐらし!
21 11 ↓-10 神回
22 なし 新規 カラ松
23 なし 新規 のびハザ2
24 25 1 レトルト
25 34 9 キヨ
26 なし 新規 十四松
27 17 ↓-10 アブ
28 7 ↓-21 もっと評価されるべき
29 23 -6 【タグ編集はできません】
30 8 ↓-22 初音ミク

2015年の特徴

(腐)女子が見るニコニコ動画

特徴的なのは、おそ松さん刀剣乱舞の人気だ。特におそ松さん人気は凄くて、2015年10月に登場以来、圧倒的な強さで、登場して3ヶ月で2位に輝いた。刀剣乱舞の人気も凄まじい物があり、初音ミクの順位が下がっていく中、MikuMikuDanceの人気を支えている。12位にMMD刀剣乱舞が入っている。 この2つとも二次創作では、いわゆる(腐)女子に人気のジャンルだ。このふたつがニコニコ動画でも人気だということは、女子がニコニコ動画をより乱しているのではないかと考えられる。

dwangoのIR資料によると、2014年の段階で、女性の視聴者割合は、35%であったが、おそ松さん、刀剣乱舞の人気を見るに、女子の割合は更に増えているのではないかと考えられる。

ドワンゴIR資料

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任天堂のゲーム戦略は変化した

任天堂のゲーム、スプラトゥーンスーパーマリオメーカーがランクインしている。任天堂のこの2つのゲームが入ったことは示唆的で、任天堂のゲーム戦略が変化しているのではないかと伺わせる。どのような変化か?ゲームはコンテンツではなく、コミュニケーションツールであるという変化だ。つまり、ゲームがクリエイターが世界観を提示して、ユーザーがそれを受容するという映画の様な楽しみ方ではなく、友達やネット上の仲間とワイワイコミュニケーションを取るためのツールであるとする変化だ。任天堂にとってみれば、もともとゲームはみんなでワイワイしながら遊ぶものだという意識があるので、先祖返りしたというのが正しいかも知れない。ただ、そこにネットという新しい要素が加わった。ゲームをコンテンツとして一人で受容するというよりも、シェアしたり共感したりするためのツールとみなしている。任天堂はそのようにゲームを作って、事実その考え方が受け入れられ、ニコニコ動画で高い順位を得たのではないだろうか?

例えば、この動画の様に、ユーザーがゲームメーカーの思惑を超えて、新しい遊び方を提案しそれをネットで共有するという遊びをしている。【論理演算】マリオメーカーに「3+3=6」を計算させてみた ‐ ニコニコ動画:GINZA これは、ユーザーがコンテンツを消費するのではなく、「こんなの作った見て見て」という形で、コミュニケーションを誘発する仕組みを提供している。

初音ミクの退潮

これは大変残念であるが、長いことニコニコ動画の象徴であった、初音ミク/ボカロの退潮が明らかになりつつある。一ボカロファンとして、残念である。退潮したからどうだというのだボカロファンは関係なく曲を作るという声もあるのは承知している。今年の紅白で千本桜が歌われた。ミュージックステーションでは、初音ミク自身がライブを行った。、世の中の認知が進む一方、逆にニコニコ動画内での初音ミクの相対的な地位は下がっている。アイマス、東方と言った他のカテゴリを同じように収まるところに収まっていくだろう。このように判断したのは単に初音ミクタグの年間順位が8位から30位になったからではなく、ボカロ関連のタグの順位が軒並み下がったこと、ボカロカテゴリの獲得ポイントが下がっていることからそのように判断した。

初音ミク関連タグの順位変化

今回順位 前年順位 増減 タグ
30 8 ↓-22 初音ミク
78 48 ↓-30 ミクオリジナル曲
112 27 ↓-85 VOCALOID新曲リンク
468 102 ↓-366 GUMI
649 266 ↓-383 VOCALOID殿堂入り

ボーカロイドカテゴリの取得ポイント推移

ボーカロイドカテゴリの獲得ポイントの推移をグラフ化した。2009年11月から2015年12月までの推移

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古参が減って新規が増えた?

今年の特徴をいうと、古参がよく見ていた動画(ボカロとか)に関連するタグが減った。また、「もっと評価されるべき」みたいな古参ならつけたであろうタグも減った。一方で女子ユーザーやゲームユーザーが元気だ。もしかしたらニコニコ動画自体が世代交代をしつつあるのではないかと思えるような気がしている。

アウラの復権

このエントリーは、2006/12/17に書かれたものをはてなブログに再掲したものだ。 2006に書かれた証拠は同名のエントリーがはてなブックマークに上がっていることから類推できる。 今読むと、ニコニコ動画の出現を予言しているように読める。なぜならニコニコ動画は、動画の視聴に共時性という擬似的な「イマ」「ココ」感を上手く取り込んだメディアだからだ。

アウラの復権

「いつでも」「どこでも」から「いま」「ここ」化するコンテンツ

著作権の保護期間延長の話

著作権の保護期間を50年から70年に延長すると言うがある。延長の是非を問う国民会議というのが出来たみたいだ。11日にシンポジウムがあった。行こうと思っていたが、日付を忘れていて、結局行けなかった。後でつらつらと考えてみたが、延長期間が、50年だろうが70年だろうが、あんまり興味がないんだなってことに気づいた。

何故著作権の保護期間延長に興味がないのについて、つらつらと考えてみた。それは多分、コンテンツの性質が変わっていっていることに関係するんじゃないかと思う。

結論を先に言うと

複製することで価値が目減りしない「いつでも」「どこでも」堪能できるコンテンツ(マンガ、小説)では、複製をコントロールする力(=著作権)がもっとも価値がある。一方で、「いま」「ここ」でしか体験できないコンテンツ(たとえば、オンラインゲームやSNSなど)は、複製をコントロールする力が余り大きな意味を持たない。

分りやすく言うと、今日突然mixiソースコードが公開されて、誰でもmixiのサービス提供していいって言われても、そのコミュニティまで引き継げる訳ではないってこと=言い換えると複製が難しい種類のコンテンツがこれから増えるんじゃないってこと。

その考えを、複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)と言う本を元に考えてみた。

複製技術時代の芸術の無理やりなまとめ

時は、1930年代、レコードや、映画が普及し始め、まだそれらが芸術だとみなされなかった時代、ベンヤミンは、複製技術が芸術作品をどのように変えるか、私たちの鑑賞方法はどのように変化するのかについて考えた。その際、彼がキーワードにしたのは、アウラと言う考え方だ。

彼によれば美術館で見る絵画や劇場で見る演劇などの芸術は、アウラを持つと考えた。それは、「今」「ここ」と言う一回性によって、形作られる。そのため、複製技術によってアウラは徐々になくなっていくと考えた。

事実、それから後、20世紀の間は、人々は演劇ではなく映画を見、コンサートではなくCDを聞いた。確かに、20世紀は、本、マンガ、映画、CD、ゲームなど、単一のものを大量に複製すると言う特徴をもったメディアを影響力をもった。力の源泉は、いくら複製しても目減りしない価値と、「いつでも」「どこでも」鑑賞できるメディアの特性だった。著作権は複製をコントロールする力として、このようなメディアと相性が良かった。

けれどもコンピュータの発達により、「いつでも」「どこでも」楽しめる特性は、裏目に出ることになる。なぜなら、コンピュータは複製が余りに簡単だったからだ。インターネットの発達がその容易さに拍車をかけた。その発達を見た複製をコントロールする力(=著作権)は、その力を強化する方向に向かった。コントロールを強化すれば、複製の力を押さえつけることができるのではないかと考えたからだ。

かならずしも複製出来る訳ではない

今まで見てきたものは、映画や小説、音楽などだ。20世紀これらのコンテンツは大きな力を持った。 しかし、それが、表現方法の全てではない。著作権は、表現物全てに、発生する。たとえば華道だって、茶道だって、香道(香りを用いた表現、いや本当はもっと奥が深いんですけど・・・)だって著作権がある。だからと言って、「池坊」と「草月」が連名で、著作権の保護期間70年まで延長を訴えるだろうか?(だいぶシュールな光景だけど)。 彼らは考えるだろう。

「50年だろうが70年だろうが、花の盛りは一週間しかない」

複製の容易なメディアとそうでないメディア

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インターネット上の複製の難しいメディア

先に書いたように、複製をコントロールする力は、複製することで、価値が目減りしないメディアに適している。けれども、コンテンツは、それだけではない。 インターネットの発達は複製を容易にしたが、一方で複製が容易ではないコンテンツの萌芽にも、力を発揮した。BlogやらSNSやらオンラインゲームやYouTubeなどの動画共有サイトがそれである。

それらのメディアは、複製が容易(なぜなら全てがデジタル化され、そもそもネットにつながっている)にもかかわらず、コピーはされない。なぜならば、blogで言えば、トラックバックやらコメント、SNSでの足跡や、コミュニティでの交流それ自体の総体が、コンテンツであり、そのコンテンツの面白さは、将に「いま」「ここ」にいることで享受できる種類の楽しみだからだ。

いまここにいることが重要なメディア

blogをたとえば、70年後に見ることもできる(できるのか良く分らないが、技術的には可能)、でも70年後では、たとえばBlogでトラックバックを送って、議論しあうと言う類の面白さはない。オンラインゲームでも、今この場で、仲間と一緒に冒険をするのが楽しいのだ。70年後に、ウルティマオンライン(初期に成功したネットゲーム)の世界に入ってみたとする。その世界には、自分一人しかいない。多分、余り面白くない。少なくともネット廃人と言われるほどには、熱中しないだろう。動画共有サイトが受けたのは、単に手軽に著作が見られたというのが受けた理由ではないと思う。むしろ、blog上で色々な人とわいわいその映像について意見を交わすのが面白かったのだ。つまり、彼らは一緒の動画をみて笑い転げると言う共有体験としての一回性が大事なのだ。

こうしてみると、オンライン上のコンテンツの特徴がわかるかも知れない。それは、コミュニティを維持発展させる能力だ。トラックバックにしても、オンラインゲームで共同で冒険するにしても、動画を共有してわいわい見るにしても、その行為はコミュニケーションを促進させ、コミュニティを作る。だからこそ、複製は単純には出来ない。全く同じ機能を持つSNSを作っても、わざわざ友達のいる今のSNSをやめる理由がない。先に見た華道が、花を物理的にコピーする能力がないがために、余り著作権延長に興味がないように、ソースや機能はコピーできても、コミュニティそのものはコピーできない、オンラインサービスもまた、著作権延長に興味がない。

複製(著作権)が省みられなくなるとき

彼らが興味あるのは、「いま」「ここ」と言う一回性の面白さを、それを体験したことがない人々にどのように伝えるかと言う点と、この場所を構成するコミュニティをどのように維持発展するかと言う点にある。

ベンヤミンが予測したように、複製芸術(映画やCD、本)の隆盛よって、作品のアウラは消滅した。しかし、オンラインを介した「いま」「ここ」を基盤とするサーブすサービスの隆盛よって、アウラは再び息を吹き返すのだ。

1990年代のオタクの雰囲気を知る本

togetterで次のまとめが人気だ。

オタクが市民権を得た現代 対して1990年代のオタクの扱い…「これは酷い!」 - Togetterまとめ

確かに、1990年代前半の雰囲気は、このような感じだった。「オタク」= 「人じゃないなにか」みたいな雰囲気。

1980年代後半(OVAやLDが出始めた位の時)に、なんか気持ち悪そうな人みたいな扱いだったが、宮崎勤事件で、社会の敵みたいな空気に変わった様な気がする。

今の、オタク文化とはちょっと違う雰囲気を知るためには次の本がよく雰囲気を伝えている。

Amazon.co.jp: おたくの本 (別冊宝島 104): 本

別冊宝島の本。1989年に出た本。

日本一短いオタクちゃんへの手紙

日本一短いオタクちゃんへの手紙

週刊アスキーがまだEye-conだった時代にあったおたくの一言集。読者カードに長文を書く姿が痛々しくて凄い。

www.bookoffonline.co.jp

宮崎勤事件をマスコミがどのように伝えたかをまとめた本。

漫画だとココらへんが参考になる。

コミュニケーション不全の男の子と、ややこしい恋愛漫画永野のりこはオタク少年をよくテーマにしている。

今では、なんとなく市民権を得たような風であるが、昔は本当に日陰者扱いだった。

今、30歳代後半の人や40歳代前半のオタクは、なんとなく懐かしく思い出すかも知れないな。

その他

togetterで、親切な人がその他の書籍を教えてくれた。

宮崎事件関連で出た本としては、次のものがあります。

幼女連続殺人事件を読む―全資料・宮崎勤はどう語られたか?

幼女連続殺人事件を読む―全資料・宮崎勤はどう語られたか?

Mの世代―ぼくらとミヤザキ君

Mの世代―ぼくらとミヤザキ君

広告批評』1989年11月号 特集「がんばれ、おたく」

『気持ち悪い人達』 『気持ち悪い人達2』1990年

上記二冊は、私も読んだが、広告批評は知らなかった。「気持ち悪い人達』は同人誌らしい。詳細はわからない。

これらの情報を漁っていた所、難波功士がまとめているおたく関連文献リストを見つけた。

http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/5288_44284_ref.pdf

戦後ユース・サブカルチャーズをめぐって(4):おたく族と渋谷系 難波功士

https://i.gyazo.com/64388fae27e038bb8cecf4bdb3f0d5b0.png

本多勝一氏の著作にも、おたくに関する記述があるらしい。

本田さんも、いちいち「ウェー」とか「エー」みたいな大業な驚き方をしていて、まあ、偏見まみれなんだろうなとは思う。

近年

現代から、過去を振り返ってその時代を記述したものとして、NHKニッポン戦後サブカルチャー史がある。NHKの同名の番組を書籍化したものだ。 番組では、戦後のサブカル文化やオタク文化を紹介してた。宮崎勤事件は、おたく界隈に大きな影響を与えたにも関わらず、それに対してはほぼ言及が無い(年表に1行記載がある)。無視されていると言って良い。そうやって歴史から無くなるのだろうなと思った。

NHK ニッポン戦後サブカルチャー史

NHK ニッポン戦後サブカルチャー史

おまけ

そういえば、1989年11月のアニメージュには、宮崎勤事件を題材に、宮﨑駿御大と、村上龍が「密室からの脱出」というタイトルで、対談をしている。

付録付)アニメージュ 1989年11月号 | 中古 | アニメージュ | 通販ショップの駿河屋

アニメージュ対談宮崎駿×村上龍銀英伝他 /【Buyee】 "Buyee" 日本の通販商品・オークションの代理入札・代理購入

http://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/ra113/users/6/1/3/2/material_star2000-img440x600-1440762994nbbzn426030.jpg

単なる人付き合いが苦手な少年たちが、日本中の人から悪意を向けられてあわくっている感じだった。アニメージュもこれは不味いと思ったのか急遽特集を行った。 単なる田舎のアニメ好き中学生だった私は、大変なことが起こったと思った。

CGMは儲からない

芝尾幸一郎 @shibacow

この文章はボカロ批評誌「VOCALO CRITIQUE」Vol06に寄稿したものを若干改変したものだ。
この小論は、2012/10に書いたものだ。文中で言及した動画などへのリンクを追加している。
「VOCALO CRITIQUE」は通信販売で手に入るので良ければ買ってほしい。

CGMは儲からない。

この文章の主題はCGMは予想より儲からないと言うことだ。そしてそれは二次創作が、贈与文化と同じ様に機能し、プラットホーマーは、あたかも未開地の酋長のように、ポトラッチを実行せねばならず儲からないという論である。

一見、CGMはユーザーがコンテンツを製作するため、企業は製造コストがかからず儲かるように見える。
しかし企業はユーザーのサービスに対する忠誠心を維持する必要がある。
そのため、CGMを扱う企業は想定より儲からないと言うことだ。

その理由を説明するため通常の市場経済ではなく、未開地で行われていた「贈与経済」を取り上げ、CGMとの類似点を指摘する。
その後、ポトラッチと言う未開地で行われていた贈与経済の現象が、実は現在の日本で行われており、それが超会議だったのではないかと言う話をする。

CGMは儲かります。

CGMは、ユーザーが勝手にコンテンツを作ってくれる。
そのため通常であればかかるはずのコンテンツの製作コストはかからない。
たとえばビジネス誌等では、ユーザーからのCGMを使うことで、製造コストを下げることができると言う話が散見される。
またイラストCGMサイトPixivでも、ソーシャルゲームの会社が、イラストコンテストを開き、その応募作の扱いが不明瞭なことから問題になった。
コンテストと銘打ちながらあたかも安価なグラフィック素材収集のように見えたようだ。
つまりユーザーを無料で働かせることで本来なら支払わなければならないコンテンツの製造コストを支払わずに済ませようと言う魂胆が見えたのだ。

この様な事例から、CGMを使えば、儲かると、考えられる風潮があるのだろう。
しかし、それはプレゼントをもらって、お返しをしなければ儲かると言う主張に似ている。
言っている事は確かに間違いではない、「一回目」は上手く行くだろう。
しかし、永続的な関係は築けない。

企業はひとつのコンテンツを作れば終わりと言う訳ではない。
第2、第3のコンテンツを作っていかなければならない。
もし、CGMを活用しようと思えば、ユーザーと長期的なやり取りを行わなければならない。 そのためには、信頼関係の構築や忠誠心の獲得を行わなければならない。
それは通常の市場取引よりも、太古に行われた贈与経済に近いのではないか?

次の章では、贈与経済とは何かについて見て行く。

贈与経済って

贈与経済は、プレゼントとそのお返しを中心とした経済のことである。
市場経済と対比すれば分かりやすい。
市場経済では、品物・サービスと貨幣の交換は「同時」に行われる。
しかし贈与経済はそれとは異なり、プレゼントをもらった側は、それと同時にお返しをしなければならないという決まりは無い。
つまり「同時発生」の等価交換ではない。
けれど、プレゼントをもらった人は何らかのお返しをしなければならないと言う負い目を追うため、程なくプレゼントを送る。
再度、プレゼントを貰った方は、再びプレゼントを送り返す。
このような贈与-返礼の連鎖が続いていく。
卓球のラリーに近いイメージだ。
あるいは、親戚づきあいや、田舎で行われる食べ物の交換をイメージしても良いかも知れない。

ニコニコ動画に上げられる動画もそのような贈与の連続で成り立っているのではないか。
ある人がボカロ曲を上げ、別のある人がそれを元に踊って見て、それを元にある人が、PVをつける、この一連の動きを、贈与経済として見て行けば理解が深まる。

ニコニコ動画を語る際に、良くN次創作と言った言葉が使われる。
ある人が、ボカロ曲を投稿し、別のある人がそれを元に踊ってみて、さらに別の人がPVをつけたり、MMDで踊ってみたのトレースを行ったり、創作の連鎖が広がっていくことをさしてその言葉を使っている。
しかし、N次創作は何故人が創作の連鎖を行うのか説明しているわけではない。
私は、N次創作が贈与とその返礼を基に行われているのではないかと考える。
次章では、ニコニコ動画での贈与ー返礼の実例を見ていこう。

ニコニコ動画における贈与-返礼の実例

探査機はやぶさの例

「探査機「はやぶさ」作ってみた」という動画がある。

その中で行われたやり取りを紹介する。

実物大のはやぶさを作っている人が、実物大はやぶさモデルを作る上で、小惑星イトカワの模型がほしくなり、庄松屋さんというUp主に協力を依頼した。
二人は色々と協力して何か作っていたらしい。
彼は、発泡スチロールの表面がイトカワに似ているね。という訳で、「適当に作って。それっぽく」と、お願いした。
しかし、庄松屋さんが適当に作ったといって持ってきたものは、CADデータからNCで「適当に(笑)」削りだした。
千分の一と、三千分の一の「正確な」惑星イトカワモデルだ。
当然、「適当」なんてレベルではなく、プロ顔負けの精巧なイトカワモデルが出来上がることになる。
この二人は別に契約関係や金銭の授受があったわけではない。
実物大はやぶさモデルを作っているUp主(yuyaさん)の熱意を見て、「適当」のレベルがトンでもなく高くなっただけだ。
yuyaさんの作ったものや熱意がある種の無形の贈与となり、それに返礼する形で庄松屋さんが、プロ顔負けのイトカワモデルを返した。
贈与とその返礼の例だ。

yuyaさんが作った実物大はやぶさ

適当に(笑い) 1000分の1スケールイトカワモデル

↑適当に(笑)作られた1/1000イトカワモデル・・・。

恐山ル・ヴォワールの例

恐山ル・ヴォワールという詩がある。シャーマンキングのコミックに劇中詩として登場する。
「かぴたろう」というニコニコ動画の一ユーザーが、その詩を元に作曲し、VOCALOIDで曲をつけ、ニコニコ動画に投稿した。
シャーマンキングの作者「武井宏之」に製作事後報告を行ったところ、作者より歓迎の意を貰う。
その後、同曲を、シャーマンキングで声優を務めた、林原めぐみがカバーし、ニコニコ動画に投稿、。
大ヒットとなった。

つまり、シャーマンキングの劇中詩に、返礼としてかぴたろうが曲をつけ、その返礼として、林原めぐみがカバーした。
アマチュアの作曲家にとって、プロの声優が自分が書いた曲の歌を歌ってくれるなんて、なんて凄い出来事だろう。
しかしこれは、シャーマンキングという作品に対する贈与と返礼の連鎖が生み出したひとつの奇跡の形なのだ。

詳しくは、ニコニコ動画恐山ル・ヴォワールの項目を参照して欲しい

コンテンツツリーと返礼

コンテンツツリーは、ニコニコ動画の一サービスで、動画投稿者が自分が影響を受けたり、元の素材にしたりした動画を親作品として登録できるサービスだ。
子作品のwatchページに、親作品は一緒に紹介される。
これはまさに、贈与の対する返礼として機能している。
影響を受けたり、素材を提供してもらった(贈与)に対して、作品を作り、親作品として元の作品を登録することで、それがある種の返礼行為になっている。

この様な例から、ニコニコ動画は、動画の投稿を通して、(贈与)-> (返礼) の繰り返しで成り立っているのでは無いかと考えられる。

実際に、コンテンツツリーにどのような作品が登録されているかランキングが作られている。 コンテンツツリー子作品ランキング。を参照。

次章では、贈与文化の他の側面を覗いてみよう。
主に取り上げるのは、超会議とはなんだったのかと言う点と、CGMと企業の付き合い方について、カオスラウンジは何故叩かれたのかと言う話だ。

ニコニコ超会議はポトラッチである

ニコニコ超会議とは

ニコニコ超会議ドワンゴが毎年ゴールデンウィークに行っているニコニコ動画を地上に再現することを目的としたイベントだ。

第一回目は2012年4月28日29日と千葉県の幕張メッセで行われた。
どのようなイベントであるか一口で説明するのはとても難しいのだが、いうなればニコニコ動画の巨大な文化際と言った類のものだ。
その場所では、歌ってみたのステージあり、踊ってみたのステージあり、作ってみたのイベントありと、何でもありのお祭り空間みたいなものだった。
実際に幕張メッセに足を運んだユーザーは9万人程度、ネット視聴者は300万人を越え、一大イベントになった。

ニコニコ動画ユーザーが集まって、互いの絆を確認しあえると言う意味に於いて、面白いイベントだった。

ポトラッチとは

ポトラッチとは、文化人類学用語で贈与経済の一形態として見られる行為のことを指す。
もともとは、アメリカ北西部のインディアンたちの言葉だ。
ポトラッチの意味は、もともとは単なる贈り物だったものが、お互いにもらったプレゼントより良い物を送り返そうとした結果、徐々に贈り物が高価になっていき、やがて贈り物のインフレーションを呼び起こす現象をさす言葉だ。
一般的に贈与-返礼のインフレーションをさす言葉として認識されている。
過剰な贈与は、しばしばその物品をもらった直後に破壊されるなどしたため浪費を促すと見られた側面もある。
確かにそれは、度を越した大判振舞いといった面もあった。

現代のポトラッチ

私は超会議に参加して、これは現代のポトラッチだと思った。
では未開地で行われたポトラッチと、どのあたりが似ているのか。
それは、ありえない赤字額と、ユーザーが望んでいるかどうか良く考えて無い、なんか良く分からない大判振舞いだ。

超会議は、大赤字だったそうで、イベントの赤字額で言えば、4億7千万円の赤字だったそうだ。参考サイト
その後も、赤字幅はだいぶ減ったが、超会議の赤字は続いている。
しかも、それに飽き足らず、この夏ニコニコ町会議と銘打ち、日本全国の町に対して、無料で超会議と同じ様なイベントを行ったり、超会議2も行った。
どのイベントを見ても赤字必至だ。
けれどもドワンゴはあまり気にせずやるようだ。
この振舞いはきわめてポトラッチ的だ。
つまり、大判振るまいでイベントを開くことで、ニコニコユーザーの忠誠心(ロイヤリティ)を高めているのだ。

ユーザーが超会議を望んでいるかどうかは良く分からない。
ネットの中ではそれよりサーバを増強せよとの声もあった。
しかし、プレゼントとはあまり役に立たないものとの相場が決まっている(結婚式の引出物を思い出そう)。
つまりこれはあくまでドワンゴ側のプレゼントであり、実質的に役に立つものかどうか二の次なのだ。
ドワンゴとしてはそれよりも、ポトラッチとして、祝祭空間を演出できたほうが良いと考えているのだ。

CGMと企業、二つの例

この章では、実際にCGMと企業がどのように交流したか見てみよう。
最初の例は、成功例。
次の例は失敗例だ。

初音ミクとファッションコラボ

一例目は、初音ミクファッションブランドにと言う試みだ。
2012年春、ファッションブランド「earth music&ecology」が、初音ミクとコラボレートした「earth music&ecology Japan Label」と言うレーベルを立ち上げた。
初音ミクをあしらったカットソーやパーカーが売られた。
そのインタビュー記事の中で、仕掛け人は以下のように語っている。

秋元 ぼくらも作り手さんたちをとにかく大切にしたいと思っていて。
それはクリプトンさんと一緒なんです。
初音ミクを売りたいと思ってるのは自分たちだけど、それを支えてくれてるのは全部の作り手さんたちなんだと。
だからクリプトンさんからも、とにかく絵師さんを大切にしてあげてくださいと言われています。

と、つまり、これは単に、初音ミクとコラボレートしたというにとどまらず、それを描く絵師も主役にしたコラボレーションとなった。

イラストコンテストと銘打っての素材集め

一方で、CGMの取り込みに失敗した企業もある。
イラスト投稿サイトの雄pixivが株式会社インパクトと行ったイラストコンテストがそれだ。
所謂ソーシャルゲームのイラストコンテストであるが、コンテストと銘打ちながらその実体は、ソーシャルゲームのイラスト素材を安く買い叩くために行われたコンテストではないかと言う嫌疑が持ち上がった。

詳しくは、下記ブログを参考にして欲しいが、そのブログによれば、同社は過去に、アルティメットセブンイラストコンテストと言う同様のコンテストを行い、結局、入賞作をきちんと公表しなかったばかりか、入賞者も自分の絵がどのようにゲームに反映されたか、一般のゲーマーと同じようにお金を払ってゲーム世界に見に行かなければならないという話しだった。
これでは、イラストコンテストに名を借りた単なる素材提供者の買いたたきではないかとブログ主は結んでいる。

Pixivと株式会社インパクトの共同企画が許されるべきではない理由

前段で、CGMニコニコ動画は、贈与ー返礼関係で成り立っていると書いた。
そしてそのような関係は、pixivのようなイラスト投稿サイトでも見られる。
そして、先にあげたソーシャルゲームのイラストコンテストはその贈与ー返礼関係を、悪用したものだ。
普通の取引(市場取引)であれば、お金をもらっていないのに、ソーシャルゲームのイラストを書くなどありえない。
しかし、CGM文化では、贈与ー返礼と言う形で、返礼を後に伸ばせる。
そのため、先にイラスト素材だけ提供させ、返礼を匂わせながら結局返礼しないと言う方法が取れる。

言うならば、プレゼントをもらって於いて、そのまま、逃走してしまうようなものなのだ。
実際に、未開地での贈与文化の中でもそのようなことが起きる。
モースの贈与論の一節に次のような話がある。

相互贈与で成り立つ社会にも、プレゼントをもらっていて返さない人たちがいた。 そのような贈与を受けながら返礼を行わない人物は彼らの言葉で顔の腐った者と言う名で呼ばれ蔑まされた。 なぜなら、返礼を欠く行為は、贈与文化が拠って立つやり取り自体を破壊してしまうと彼らも考えていたからだ。

カオスラウンジは何故叩かれたのか

カオスラウンジと言う現代アート集団がいる。
彼らはある出来事きっかけに、ネット住民達の怒りを買ってしまう。

彼らの中の主要メンバーである梅沢は主にネット上にアップされたイラストを、コラージュしたり、加工して新たな作品を作ることで知られている。
彼はふたばチャンネルで細々と流通していたキメこなちゃんと言うキャラクターを大々的に流用したことで、ふたばチャンネルの住民の怒りをかった。
この行為は一般に「著作権」の問題としてクローズアップされた。
つまり、キメこなと言うふたばチャンネルの住人たちが育てたキャラクターを無断で利用したと言うわけだ。
しかし本当は、この問題は、贈与ー返礼の概念で考えたほうが分かりやすい。
キャラクタの盗用であるなら、ふたばチャンネルから2chへの流出もあったが、特にそれは問題にならなった。
なぜなら、ふたばチャンネルと2chは、同じような文化を有する近いコミュニティだとみなされていて、その流出は盗用というより文化を育て、キャラクターを育てると好意的に解釈された。
しかし、梅沢の行為は、ネット住民になじみが無い現代美術コミュニティへの流出であり、それはふたばコミュニティ住民の逆鱗に触れた。
それは(キメこなちゃん)というCGMの関与するユーザーたちの、成果(贈与)を掠め取る行為に映ってしまったのだ。
この問題が、一応著作権の問題になった。
なぜなら、返礼が無いことを問題にしても贈与をもらって返礼やプレゼントを返さない行為に対する法的な罰則は存在しないからだ。

しかし、一方でプレゼントのお返しをしないことへの同義的な責任や怒りはついて回る。
そのために「著作権」の問題として、取り上げられる。

この件に関して、カオスラウンジは、ふたば住民に対して返礼を行ったか聞いて見れば良いだろう。

この見解に近いエントリーもある。
はてな匿名ブログに書かれた、■カオス*ラウンジは他のコミュニティから収奪を行うが故に非難されるがそれだ。

簡単にまとめるなら、漫画原作者、二次創作者は同じ作品のコミュニティに属しており、2次創作者の活動は(結果的に)作品の畑を耕す養分になるので攻撃されないと言う趣旨のものだ。
つまり、ある種の贈与ー返礼サイクルが成り立っているといえる。

この、贈与返礼と言うサイクルが2次創作を語る上でしばしば口に出される「作品に対する愛がある」と言う表現に繋がってくるのだろう。
作品に対する愛があるという表現は、その作品によって感銘を受けた(感動と言う贈与を与えられた)読者による返礼(二次創作を作る行為)だと考えれば理解しやすい。
だから、多くに二次創作者は自分の受けた感銘を作者や作品を中心としたコミュニティに還元するため赤字でも二次創作を作るのだ。

あなたが贈れるものは何ですか?

この論自体単なる評論だ。
でも、CGMと付き合いたい企業にとって、大事な視点を提供している。
それは、あなたが作り手に提供できるものは何かを常に意識せよと言うことだ。
CGMとユーザーと進めるにあたって、ユーザーを単なる安価な下請けのように扱うことは本当に避けなければならない。
一回目は上手く行っても永続的な関係を築けない。

企業の側にお金が無いならば、お金が無いなりに、礼を尽くして返礼をせねばならない。
必ずしも華美な贈り物だけが人の心を打つとは限らない。
幼児がプレゼントとして花の首飾りをくれるのも、十分プレゼントして意味がある。

大事なことは、企業は、身の丈以上の贈与を行うことだ。
そう考えると結局企業がCGMと付き合っても儲かることにならないと言う話に終わるのですが・・・・。
それでもそこに、金銭的な価値以上の豊かさを提供できる場が出来上がるだろう。

まとめ

CGMは、ユーザーから制作費をかけずにコンテンツを作ってもらえるため、企業にとっては一見魅力的に見える。
しかし、CGMは贈与経済としての側面を持っている。
そのため、企業はつき合い方を考えなければならず、必ずしも儲かるとは言えない。

贈与文化の例をメタファーにするなら、企業はポトラッチを行い、運営者として気前のよさをアピールしなければならず、むしろ儲からない。

参考資料

市場規範と社会規範の話が、贈与ー返礼の話に近い

伽藍とバザール

伽藍とバザール

伽藍とバザール

・ノウアスフィアの開墾・「魔法のおなべ」 エリックレイモンドのオープンソースの文化概論3部作。
オープンソースという無償の協力行動に対して、それがどのような規範から生じているかを論じている。
この視点は、ニコニコ動画やpixivといったCGMサイトを考える際にも有効である。

贈与論 他二篇 (岩波文庫)

贈与論 他二篇 (岩波文庫)

贈与論-マルセル・モース

南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)

南極点のピアピア動画 (ハヤカワ文庫JA)

南極点のピアピア動画に出てくる企業は明らかにドワンゴをモデルにしている。 この小説で信じられている世界は、贈与-返礼を基盤とした善意を信じられる世界で、それは二次創作の世界の基盤になっている。

弱者男性とフェミニズム

弱者男性をめぐる議論

弱者男性とフェミニズムの話がはてなで人気だ。

弱者男性の救済にフェミニズムが何の役割も果たしていないという異議申立てがなされた。

togetter.com

その話を補強するエントリーがこちら。

1)フェミが弱者男性の弾圧に一役買っているということ anond.hatelabo.jp

それに対する反論

2)いい加減“弱者男性”をフェミニズム批判の道具にするのをやめろよ。 anond.hatelabo.jp

上のエントリーと下のエントリーは話が噛み合っていない。上のエントリーが強者女性の話をしているが、下のエントリーは女性一般の話にすり替わっている。

フェミニズムと弱者男性を語る場合、次の2つのことはよく出てくる。

  • 強者女性と、女性一般の話の混乱
  • 何故、弱者男性は、フェミニストにその境遇を語るのか?

議論を先取りしてしまうと、フェミニズムには、「自分が強者になった後」の理論が弱い。そして弱者男性がフェミニズムに向けて、何らかのケアを要求するのは、将に「それがかって彼女たちがやったから」だ。

女性の地位向上と男性の地位下落

昔、女性の地位が低く、また男性であれば高い地位が保証されていた時代があった。

図示すればこんな感じ。

f:id:shibacow:20150524152405p:plain

女性の地位は低く、男性は正社員として雇用され比較的近い集団だった*1

しかし、女性運動の進展とその後の低成長、デフレ経済、不正規雇用の拡大によって次のように変化した。

f:id:shibacow:20150524153943p:plain

つまり、女性の地位が向上し、逆に非正規雇用や長期の不況のより正社員になれず身分の不安定な男性が多くなった。

この変化がフェミニズムででは見過ごされ、男性や女性は一枚岩であるというところで認識が止まっている。

だから例えば次のようなことが起こる。

f:id:shibacow:20150524204702p:plain

例えば、女性大学教員年収800万)が、男性非正規雇用(年収300万)に対して、差別撤廃に尽力すべしと言う。本来社会的な地位があるのは、女性教員の方であるが、何故は彼女たちは自分自身が権力を持つと自省しない*2

社会運動の戸惑いという書籍の出版記念座談会で次のように言っている。

d.hatena.ne.jp

いつまでも被害者面ばかりを前面に押し出してフェミニズムを唱えてていいのか。フェミニストが行政と組んで男女共同参画政策を進めたり、大学にポストを多く得るようになったりして、ある意味、社会的には強者とみなされるようになった時点で、自らの権力について問うたり、女性を被害者としてのみ見なしがちな理論や知見を洗い直す必要があったのに、それをしてこなかったんだなと思っている。

斉藤の訴えていることは、上の指摘につながる。

上の2つのはてな匿名ダイアリーの話もすれ違っており、それは次の2つの面にフォーカしているからだ。

図示すればこんな感じ

f:id:shibacow:20150525020407p:plain

つまり、1のエントリーは、強者女性の負うべき応答義務は何かという点にフォーカスしているのに2のエントリーは、女性全体の話になっている。(だから女性全体の平均賃金が出てくる)。でも1のエントリーで言及したかったのはむしろこんな図だ。

http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h23/zentai/html/zuhyo/zuhyo_img/zuhyo01-02-13.gif

平成23年版男女共同参画白書|内閣府男女共同参画局

役職者になる女性は増えており、そのため強者女性も増えていることが伺える。その中にフェミニストも居るだろう。彼女たちは応答義務はないのかというのが1の主張だと思う。だから、女性一般や弱者女性を例に出すのは、すり替えだろう。

自分自身を強者と見なさないフェミニズム

フェミニズムに自分自身を強者とみなす理論は無いのではな無いか?そのような例を見てみる。

少し前の雑誌であるが、女性学vol8に面白い論文が載っている。

ci.nii.ac.jp

英国におけるブラック・フェミニズムの現在--「ブラック」という概念をめぐる議論から見えてくるもの

が、それだ。

この論文は英国におけるフェミニズムについて論じたもので、日本と大きく違うのは、性別の区別以外に、人種(黒人、白人その他の人種)という要素が加わることだ*3

その中で黒人フェミニストが、「ユダヤ人」の白人フェミニストや「キプロス人」の白人フェミニストを、白人という権力者階級に属しているではないかと批判した。図にするとこんな感じ。

f:id:shibacow:20150525021435p:plain

つまり、白人フェミニストは白人という優位な人種に属しており、女性の連帯を掲げるが、現に黒人を抑圧しているではないか?と。

そしてそれに対して、当のユダヤ人の白人フェミニストはこのように答えた。私達も白人間では迫害されていると。

つまり、ユダヤフェミニストが黒人に対する抑圧に加担しているかどうかには直接答えず、自分立ちもまた被害者であると主張したのだ。

この話が示すように、フェミニズムは自分たちが被害者・弱者であるときは弁舌が鋭いが、加害者・強者であるときは、ほとんど無言になる。白人のユダヤフェミニストが語ったように、自分の加害者性は無視して、自分が如何に被害者・弱者であるかばかり語る(その際に、支配階級は別に居る、自分たちは支配者ではないという言説を語る)という性質は日本のフェミニストもまた共有しているのかも知れない。

自分たちが使ったロジックに自分がさらされる。

次に、何故弱者男性は、フェミニストに窮状を訴えるのか?を考えていこう。多くの人が指摘するようにそこには具体的な要求は少ない。彼らは何を言わんとしているのか?

女性運動を図示するとこのようになる。

f:id:shibacow:20150525030508p:plain

女性は(公正を元に)要求を出し、強者男性は、渋々それに応じてきた*4

そして同じ構図で、強者女性に向けて、弱者男性が窮状を訴えた。

f:id:shibacow:20150525030515p:plain

上の図と、同じ構図だが、プレイヤーは入れ替わっている。強者男性の位置に、強者女性がおり、女性の位置に弱者男性が居る。 弱者男性は、昔女性がしたように訴えたが、返ってきたのは、無視か甘えるなという言葉だけだった。

弱者男性に具体的な要求は無いと書いた。彼らはむしろ、むしろある疑いを晴らそうとしているのだ。女性たちの訴えは「公正」を巡るものなのか?そうでなく「自分たちの都合」だけのことなのか?「公正」なら何故自分たちは応答しないのか?「自分たちの都合」ならむしろ強者男性が彼女たちに応答する意味は無くなる。

強者男性には「公正」(法の下での平等)を掲げ要求を通し、一方自分たちが強者として弱者男性への応答を無視するならそれは欺瞞ではないか?弱者男性はそのような疑いを持っている。

弱者男性が、強者男性に直接要求しないのは、そもそも強者男性は「公正」を旗印に他者にあれこれ要求することは無いからだ(支配階級なので公正ではなく権力で言うことを聞かせられる)。

弱者男性は、強者女性トが「公正」を旗印に自分たちの要求を通して、地位を獲得したらな、我々も無下にはしないだろうと期待した。

つまり、強者女性は自分たちが用いたロジック(公正さ)を自分たちに向けられた訳だ。

この話は上の、強者であることに自覚的で無いフェミニストの話と繋がっている、自分たちが地位向上の運動をして、その結果女性の地位が向上する。その結果強者となる女性も出てくる。強者になるのだから当然他の弱者から要求が出てくる。しかし、彼女たちはそれをどのように受け止めれば良いかわからな無いし、強者としての応答義務を果たすということも理論化出来ずに居る。

つまり、地位向上の運動をするが、その結果として何が責任として生じるかに無自覚だったのだ。地位向上の運動が成功すれば成功するほど、女性たちはかって強者男性たちが居た場所を占めるようになり、自分たちがかって批判した「強者男性」にならないために何をなすかという理論が重要になってくる。

当然だがこの話は、全く言及されない弱者女性に対して何もしなくて良いという話ではない。彼女たちの窮状は救わねばならないが、だからといって強者女性が応答しなくて良いという話にはならない。

結び

この論を男性の妄想だというのは容易い。けれども、文中に引用した

いつまでも被害者面ばかりを前面に押し出してフェミニズムを唱えてていいのか。フェミニストが行政と組んで男女共同参画政策を進めたり、大学にポストを多く得るようになったりして、ある意味、社会的には強者とみなされるようになった時点で、自らの権力について問うたり、女性を被害者としてのみ見なしがちな理論や知見を洗い直す必要があったのに、それをしてこなかったんだなと思っている。

という問題が無くなる訳ではなく、女性の地位向上という運動が成功すれば成功するほど、彼女たちが忌み嫌っていた「強者男性」の地位を占めていく。その時、強者女性が、かっての強者男性と同じように抑圧的にならないことを願うばかりだ *5

参考文献

フェミニストが、強者女性として、地位を獲得した後、どのように振る舞うべきかどのような倫理があるのか、かっての「強者男性」の様に抑圧的にならないためにはどうしたら良いのかとか書いた本や議論てあるのだろうか?あったら読みたいので教えてほしい。

社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

草の根保守やフェミニズムの権威化についてフィールドワークを重ねながら詳しく論じている。良著なのだが、あまりフェミニズム界隈で言及している人が少ない。フェミニズム自らの権力性について考えるための良い資料になっている。

同じく女性学の権威化について論じている

タイトル間違っていたので修正しました→ フェミニにずむ→フェミニズム

*1:一億総中流、男性サラリーマンに女性専業主婦がモデルケースになっていた。実際にはそれに当てはまらない人も大量にいたがあくまでモデルケースとしてはこれがモデルケースになっていた

*2:別に男性非正規雇用に言っている訳ではなく、男性一般に言っているが、強者男性にのみ伝えるという配慮は無い

*3:日本にだって民族差や人種差に基づく差別もあるが、それがフェミニズムの対立を生んでいるわけではない

*4:フェミニストはまだまだ足りないと言うだろうが、それでも男性ばかりの議会で男女同権に向けて法整備がされたのは事実だ

*5: シスターフッドがあるから暴走しないみたいな話はあまりに根拠が弱すぎる。女性同士の集まりであるWANだって、WEBの管理を巡って相当やりあったじゃない。

電脳のレリギオ

ドミニク・チェンの「電脳のレリギオ」が発売された。 情報化社会において私達のコンパスになるべく書かれたものだ。 曰く、情報化社会において、否応なく進展する私達の身の回りの電脳化に対して、流されるわけでも拒否するわけでもないつきあいかたを考える本だ。

電脳のレリギオ:ビッグデータ社会で心をつくる

電脳のレリギオ:ビッグデータ社会で心をつくる

かっちりとした文章というよりは色々と示唆に富む話が多かった。特に、彼らが提供しているPicseeiTunes の App Store で配信中の iPhone、iPod touch、iPad 用 Picsee - カメラロールを共有するプライベートなビジュアルコミュニケーションの話は面白かった。

以下、彼の本を読んで思いついたことをズラズラと書く

人間は悪魔になるには、粗忽すぎる。
ラプラスの悪魔
悪事は「うっかり」ばれる。
あんまり無茶苦茶やらない方に倒しておこう。
NSAは米国政府というガバナンスの問題。
つまり、強すぎる権限の問題。
何かを秘密にするには、ばれても、あまり追求されないという法の保護が必要。
Googleで同じことは出来ない。
完璧に何十年にも渡って存在を秘匿できる組織を運営するなどほとんどの国は出来ない。人はうっかりばらしちゃうので。
むしろ、バレた際に内部に手を突っ込まれないような組織防衛が出来るシステムが必要。
テロリストは良い隠れ蓑になる。
多くのデータが集まれば精度は高くなる。グーグル
不自由を実装する。
CPU,OS,コンパイラを作る。
再接続でインスタンスを作る。
レリギオ
ココロのインスタンスを作り直す。
セカンドライフの縮小版としてのニコニコ動画
理系と文系が奇妙に同居する
twitterを初めて触った時には有益なことを言わなければと思ったがどうでも良くなった。
情報には過去がない
生産する機械はあるが消費する機械は無い。
パラメーターの加工修正はこれを認めない。
日銀化するゲーム運営。貨幣の価値を徐々に落とす。
テロリストが居ない社会の実現
インターネットは価値を内容する。
我々は監視されている。
我々は監視する。
バグの存在は人を豊かにする。
人間は元来粗忽者である。
接続の意味は神じゃなくて人との接続だった。
弔われる権利

途中NSAが出てきたが、ちょっとNSAの例は特殊なのでは無いかと思っている。NSAのような組織が世界中の政府や民間団体からポコポコ生まれてくるかというそれはないだろうと感じる。というのもNSAに必要なのは科学技術ではなく、やっていることが露見しても野党の議員が調査できないような強い権限だからだ。実際のあの手の組織を運用できるのはアメリカと中国ぐらいなものだろう。

全般的に面白く読めたが、よく読んだらあまりビックデータに触れられてないのと、ちょっとアーキテクチャーに強い全能性を与え過ぎな気がする。

濱野さんの環境管理型権力にも繋がるが、エリートの設計に若干夢を見過ぎではないかと感じる。あたかも、エリートが設計したシステムによってユーザーがコントロールするみたいな書きぶりの所があるが、オンラインゲームやオンラインエンターテイメントのエンジニアや企画が繰り返しユーザーに教えられるのは、如何にユーザーは開発者の思い通りに動かないかということの方だ。

エンジニアが情報論を読むと、若干陰謀論めいた感覚に陥るのは、自分たちが作るものが如何に脆弱でしょぼいものであるか繰り返し思い知らされるのに、外部の人は異様に凄いものの様に捉えてしまうという点にあるのかも知れない。

何にせよこの本は情報化社会を考える上で一つの羅針盤になることは間違いないだろう。

魔術家電

魔術家電という言葉を思いついた。家電の操作に魔術的なプロトコルを使うという意味だ。

最近、IoTとかセンサーのついた小型のマシンが人気だ。人がそのような環境に偏在するマシンとどのようにコミュニケーションを取るのが最適だろうかと考えている。

特に、それらのセンサーのついた環境に偏在する小型のマシンをその場でプログラミングするとしたらどのようなやり方が最適だろうか。

ひとつあるのは、九字の印を結んだりとか魔法陣書いたりと言った魔術や呪術の所作を使って、マシンをプログラムできないかと考えている。

魔術や呪術の所作というのは、自然や環境に対するコミュニケーションの手法だから、偏在化してしまうことでもはや環境になってしまったマシンの操作にも使えるのではないかと思っている。

昔、蝉丸Pという人が面白いことを言っていて、

高校、大学と高野山で学びながら100日間の加行を受けました。修行では、とにかく拝む方法・作法を一通り覚えるんですね。密教の行は、一種の圧縮技術で、言うなれば".zip"(→ウィキペディア)みたいなものなんですよ。手の動き、真言のひとつひとつに概念が圧縮されているんです。本当に行をやるというのは、膨大な概念を手のサインひとつに集めて、連携させていくことで目の前にイメージを作っていくもので。ものすごい圧縮技術の型と瞑想・供養の手順を覚えるのが密教の修行です。

http://www.higan.net/bouzu/2009/08/semimarup-1.html

この話中の

膨大な概念を手のサインひとつに集めて、連携させていくことで目の前にイメージを作っていくもので。ものすごい圧縮技術の型と瞑想・供養の手順を覚える

の部分が特に面白いと思った。概念が手のサインに結びついていて、それを連携させていくことで、別のイメージをつくり上げるみたいな話は、シンボルを連携させることで別の機能を作り上げて行くプログラミングの概念に似ているなと思った。

今の所プログラミングはPCの画面やキーボードから離れては出来ないけど、身の回りにある小型のPC(ラスベリーパイとか)には、ディスプレイもついてないし、九字の印を結ぶみたいにある所作を組み合わせて、別の機能を実装できたら面白いだろう。