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アウラの復権

このエントリーは、2006/12/17に書かれたものをはてなブログに再掲したものだ。 2006に書かれた証拠は同名のエントリーがはてなブックマークに上がっていることから類推できる。 今読むと、ニコニコ動画の出現を予言しているように読める。なぜならニコニコ動画は、動画の視聴に共時性という擬似的な「イマ」「ココ」感を上手く取り込んだメディアだからだ。

アウラの復権

「いつでも」「どこでも」から「いま」「ここ」化するコンテンツ

著作権の保護期間延長の話

著作権の保護期間を50年から70年に延長すると言うがある。延長の是非を問う国民会議というのが出来たみたいだ。11日にシンポジウムがあった。行こうと思っていたが、日付を忘れていて、結局行けなかった。後でつらつらと考えてみたが、延長期間が、50年だろうが70年だろうが、あんまり興味がないんだなってことに気づいた。

何故著作権の保護期間延長に興味がないのについて、つらつらと考えてみた。それは多分、コンテンツの性質が変わっていっていることに関係するんじゃないかと思う。

結論を先に言うと

複製することで価値が目減りしない「いつでも」「どこでも」堪能できるコンテンツ(マンガ、小説)では、複製をコントロールする力(=著作権)がもっとも価値がある。一方で、「いま」「ここ」でしか体験できないコンテンツ(たとえば、オンラインゲームやSNSなど)は、複製をコントロールする力が余り大きな意味を持たない。

分りやすく言うと、今日突然mixiソースコードが公開されて、誰でもmixiのサービス提供していいって言われても、そのコミュニティまで引き継げる訳ではないってこと=言い換えると複製が難しい種類のコンテンツがこれから増えるんじゃないってこと。

その考えを、複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)と言う本を元に考えてみた。

複製技術時代の芸術の無理やりなまとめ

時は、1930年代、レコードや、映画が普及し始め、まだそれらが芸術だとみなされなかった時代、ベンヤミンは、複製技術が芸術作品をどのように変えるか、私たちの鑑賞方法はどのように変化するのかについて考えた。その際、彼がキーワードにしたのは、アウラと言う考え方だ。

彼によれば美術館で見る絵画や劇場で見る演劇などの芸術は、アウラを持つと考えた。それは、「今」「ここ」と言う一回性によって、形作られる。そのため、複製技術によってアウラは徐々になくなっていくと考えた。

事実、それから後、20世紀の間は、人々は演劇ではなく映画を見、コンサートではなくCDを聞いた。確かに、20世紀は、本、マンガ、映画、CD、ゲームなど、単一のものを大量に複製すると言う特徴をもったメディアを影響力をもった。力の源泉は、いくら複製しても目減りしない価値と、「いつでも」「どこでも」鑑賞できるメディアの特性だった。著作権は複製をコントロールする力として、このようなメディアと相性が良かった。

けれどもコンピュータの発達により、「いつでも」「どこでも」楽しめる特性は、裏目に出ることになる。なぜなら、コンピュータは複製が余りに簡単だったからだ。インターネットの発達がその容易さに拍車をかけた。その発達を見た複製をコントロールする力(=著作権)は、その力を強化する方向に向かった。コントロールを強化すれば、複製の力を押さえつけることができるのではないかと考えたからだ。

かならずしも複製出来る訳ではない

今まで見てきたものは、映画や小説、音楽などだ。20世紀これらのコンテンツは大きな力を持った。 しかし、それが、表現方法の全てではない。著作権は、表現物全てに、発生する。たとえば華道だって、茶道だって、香道(香りを用いた表現、いや本当はもっと奥が深いんですけど・・・)だって著作権がある。だからと言って、「池坊」と「草月」が連名で、著作権の保護期間70年まで延長を訴えるだろうか?(だいぶシュールな光景だけど)。 彼らは考えるだろう。

「50年だろうが70年だろうが、花の盛りは一週間しかない」

複製の容易なメディアとそうでないメディア

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インターネット上の複製の難しいメディア

先に書いたように、複製をコントロールする力は、複製することで、価値が目減りしないメディアに適している。けれども、コンテンツは、それだけではない。 インターネットの発達は複製を容易にしたが、一方で複製が容易ではないコンテンツの萌芽にも、力を発揮した。BlogやらSNSやらオンラインゲームやYouTubeなどの動画共有サイトがそれである。

それらのメディアは、複製が容易(なぜなら全てがデジタル化され、そもそもネットにつながっている)にもかかわらず、コピーはされない。なぜならば、blogで言えば、トラックバックやらコメント、SNSでの足跡や、コミュニティでの交流それ自体の総体が、コンテンツであり、そのコンテンツの面白さは、将に「いま」「ここ」にいることで享受できる種類の楽しみだからだ。

いまここにいることが重要なメディア

blogをたとえば、70年後に見ることもできる(できるのか良く分らないが、技術的には可能)、でも70年後では、たとえばBlogでトラックバックを送って、議論しあうと言う類の面白さはない。オンラインゲームでも、今この場で、仲間と一緒に冒険をするのが楽しいのだ。70年後に、ウルティマオンライン(初期に成功したネットゲーム)の世界に入ってみたとする。その世界には、自分一人しかいない。多分、余り面白くない。少なくともネット廃人と言われるほどには、熱中しないだろう。動画共有サイトが受けたのは、単に手軽に著作が見られたというのが受けた理由ではないと思う。むしろ、blog上で色々な人とわいわいその映像について意見を交わすのが面白かったのだ。つまり、彼らは一緒の動画をみて笑い転げると言う共有体験としての一回性が大事なのだ。

こうしてみると、オンライン上のコンテンツの特徴がわかるかも知れない。それは、コミュニティを維持発展させる能力だ。トラックバックにしても、オンラインゲームで共同で冒険するにしても、動画を共有してわいわい見るにしても、その行為はコミュニケーションを促進させ、コミュニティを作る。だからこそ、複製は単純には出来ない。全く同じ機能を持つSNSを作っても、わざわざ友達のいる今のSNSをやめる理由がない。先に見た華道が、花を物理的にコピーする能力がないがために、余り著作権延長に興味がないように、ソースや機能はコピーできても、コミュニティそのものはコピーできない、オンラインサービスもまた、著作権延長に興味がない。

複製(著作権)が省みられなくなるとき

彼らが興味あるのは、「いま」「ここ」と言う一回性の面白さを、それを体験したことがない人々にどのように伝えるかと言う点と、この場所を構成するコミュニティをどのように維持発展するかと言う点にある。

ベンヤミンが予測したように、複製芸術(映画やCD、本)の隆盛よって、作品のアウラは消滅した。しかし、オンラインを介した「いま」「ここ」を基盤とするサーブすサービスの隆盛よって、アウラは再び息を吹き返すのだ。